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007
香里さん
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54歳/女/自営/子ども(29歳男・22歳女)は独立
離婚の時期と方法=結婚29年目に協議離婚
離 婚 の 原 因 =夫の浮気etc...
現在、離婚をして=良かったと思う
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背負ってきた悲しみをバネにして
夫は団塊の世代。家庭環境の非常に複雑な資産家の家庭で、夫は親の愛や情け、厳しさを知らずに育ちました。というのも、育ての親は実の両親でなく、父方の祖父を養父とし、血のつながらない父方の祖母が母親代わりでした。実の両親は同じ敷地内に暮らしていましたが、養父母と折り合いが悪く、夫には兄弟がいましたが一人っ子同然で囲われ、養父母に盲目的に溺愛されながら屈折せざるをえない環境だったようです。一方、私は父母と5人兄弟姉妹の中で、贅沢な暮らしはありませんでしたが、賑やかな環境で育ちました。夫と私は高校時代の同級生で、大学生の頃、東京で再会。互いに23歳で結婚。それからすぐ長男を妊娠し、サラリーマンの夫と5年ほど東京で生活をしました。
ところが27歳の頃、家業を継ぐべく夫の実家へ移ることに。そこは、4世代家族が同居生活しながら交流もなく、皆、背をむけている複雑な家庭でした。男の特権とばかりに暴力をふるい、資産家である見栄、日常茶飯事のご近所様との揉め事、裁判沙汰。男の甲斐性とばかりに妻以外に女性をもち、それに耐えて自分を殺して生きる女性。豪邸に住みながら、誰も平和でなく、心から笑うこともできず心に溜まったものに目を瞑り、押し殺していた生活。夫の実家は、まるで牢獄でした。
そんな一変してしまった環境の中、まもなく誕生した次男は小児ガンのため、苦しい検査、治療、入退院を繰り返し短い一生を終えました。私はこの経験を通して、「自分の気持に蓋をし、鍵を掛ける」という生きる術のようなものを覚えてしまったようです。その後どんなに苦しく困難なことが生じようとも「あの子の受けた苦しみに比べれば、どうってことない」と自らを励ますように生きてきました。「彼の誕生と死」を「弱い母を励ますためだったのだ」と意味付けることで、生活していたように思います。その後、誕生した長女は、生きることができなかった次男の分まで健康でした。
夫の不貞から『夫婦』を見つめ直すことに
40歳の時、夫の不貞が発覚。相手は会社の部下でした。私は夫の事業を手伝うために一緒の職場で働いていたので、もちろんよく知った女性でした。関係が知れてからは、夫婦所有の事業ビルの隣に、その女性を取締役として同業の事業を始め、私たちの会社から商品を持ち出して商売をしていることを知りました。いわば「合法的に愛人を囲っていた」わけです。
夫のこの不貞が初めてではなかったことは後で知りましたが、その時は裏切られた思いでいっぱいでした。でも、よく考えてみるとこれ自体は離婚のキッカケであって、本当の原因ではないと思っています。その女性の一件がなかったとして、私たちは本当の夫婦だったのだろうか?私は本当の意味で、夫のことを知っていたのか?夫を愛していたといえるのだろうか?こうした自問自答に「法的に夫婦だから"夫婦"と思い込んでいただけ。愛していると錯覚していただけ」だと気づき始めました。戸籍上の紙一枚のつながりの他に、何も私たちをつないでいるものは無かったのです。
“相手と自分は違う”この当たり前で、簡単そうなことの意味を理解するのに大変な時間が必要でした。これは夫婦だけの問題ではありません。生きていく上で、あらゆる人との関係においても同じです。違いを認めあい、それをどう埋めようと努力できるか、努力しようとするか。そのために、自分を知ること。相手を知ろうとする心は必要ですが、私は結婚した時点から、その努力を放棄していたように思います。そうした意味では、離婚の原因の幾分かは自分にもある、と思うようになりました。
「結婚後は、夫をたて、夫の影になり、夫のいうことを聞き、自己主張をせず、その見返りとして夫から可愛がられる妻・嫁になることが理想的な女性の生き方であり、女の幸せである」
ほとんどの団塊の世代は、親の代からこうした考えをもとに育てられました。結婚生活の私は、例えるなら「夫の持つ傘の下で、夫の影に隠れておどおどしたような生活」でした。日々の争いごと、妬み、嫉妬、金銭的トラブルなどから、子どもたちと自分を守るための防衛手段だったように思います。
結婚生活から離婚成立までの歳月が、私を脱皮させた
調停から高等裁判所まで時間にして8年掛かりましたが、最終的に高裁中の協議離婚です。裁判上は「夫の不貞」が原因でした。でも、これ自体は夫婦に起きた最後の事件。長すぎると思われた裁判の時間も、私にとってはむしろ必要な時間でした。裁判中に二人の子どもは成人しました。
29年にも渡る、長い長い結婚生活を終焉するまで、本当に色々なことがありました。
二人の舅、二人の姑との関係に翻弄した日々。
家業が倒産した時。
劣悪な私の精神状態の時に誕生した次男の幼い死。
夫をはじめ私、長男、次男が養父母(祖父母)の戸籍上養子となったこと。
遺産相続争い。
事業に絡んだ事件での夫の逮捕。
事業が順調に伸びて充実したかに感じていた頃。
拡大する事業と共に膨らんでいった銀行負債。
すべての連帯保証人に私がなったこと。
夫に愛人がいることを知って嫉妬と怒りに狂い、体調を壊したこと。
精神的にも醜くなってしまった自分に耐えられなくなったこと。
当時、大学生になりたての息子と中2の思春期の娘に励まされたこと。
そして、離婚を決意した時。
裁判をしながらも3年以上も同じ職場で仕事をせねばならなかった屈辱。
子どもや従業員の前での夫の私に対する暴言、冒涜、暴力。
別居の約束を守らない夫と、裁判中にもかかわらず家庭内別居を4年も続けた切なさ。
養母(祖母)の他界。
裁判中に続いた葬儀を自分一人で仕切ったこと。
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多くのことが走馬灯のように思い出されます。「私の結婚って、何だったのだろう」と離婚を決意してからの8年間は、嫌で忘れてしまいたいことも掘り返して自分に問いかけながら考える時間でした。そして、最初は泣いてばかりいた弱い人間から、静かに闘う人間に変わった母親を見ながら、その間に子どもたちもしっかりした大人になりました。結婚も離婚も、どちらの選択も間違いではなかった、と自分に納得させ、確認する貴重な時間でした。こんな家庭環境にありながら、立派に成長した息子と娘のことや、幼くして亡くなった息子を思うと、彼らの父親と私が共有した時間が、間違っていたとか失敗だったという捉え方は、どうしてもできません。
離婚そのものは不幸な出来事だったかもしれませんが、私にとっては全く違う次元での脱皮するキッカケだったように思います。離婚という窓を通して、人生や自然や未来や家族や人と人との関わりや語らいの大切さなども学びました。この8年を通過したことで、自分が新しくなったことを感じます。自分を知り、相手を知る努力のできる人でありたい。もちろん将来に不安はありますが、先々を心配するよりも、今の自分を励ましたいのです。
子どもが巣立ち、自分自身に大きなうねりを感じるリ・スタート
一時43キロまで落ち込んだ体重が、今は10キロ増えて53キロ。極めて健康で、幸せに暮らしています。夫の連帯保証人であることは離婚しても外せないため、事業上は夫と今もつながっています。彼はその後も、愛人の数を増やしているようです。息子は結婚することになり、娘はもうじき大学を卒業します。彼女の将来の夢は渡米してもう一度学ぶことらしいです。皆、それぞれが自分の人生のスタートをきったところです。私は来年早々、再び東京で一人暮らしすることに決めました。
不思議な感覚ですが、私の離婚もよかったけれど、あの結婚も悪くなかったなあという気持ちです。あの中で自分を鍛え抜いた。離婚は、そこからの解放。どちらも自分自身だったのだと。辛い体験でしたが、一つひとつ考えることに対して、やさしくなれた気がします。
東京家族ラボは、離婚が大詰めの時にパソコンで検索していて偶然見つけました。メーリングリストに参加して3年。書くことで考えをまとめ、混沌としたことが整理されました。男性の意見にも、とても救われました。結婚生活や離婚で悩んでいる方の多いことに少々驚いております。
今、54歳ですけれど、青い目のパートナーを見つけたい!なんて思います。結婚という制度よりも、人生で一緒に語り合える相手がほしいなあと。将来、娘が渡米するのなら彼女への訪問を口実にして、誰か見つけて来ちゃおうかな…なんてね。第二の人生は、始まったばかりですから。
2002年11月
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